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沖縄県産オリオンビールと昔話

皆さんこんにちは!今日も雨の沖縄です。さて今日はオリオンビールと当店について書いてみようとおもいます。

 


 

オリオンビールを最初に飲んだのはいつだろうか?多分、学科かサークルか何かの新入生歓迎の飲み会かな。はっきりとは覚えていません。大学入学は1989年のバブル絶頂期!この頃企業は、社会貢献とかで美術館つくったり、冠イベントとかで大きなスポーツイベントのスポンサーになったり、小さなものでは大学生のサークルのイベントのスポンサーになってくれたりしていました。いい時代だったんですね。沖縄でも例外ではなく自分のお世話になった先輩【最近来沖の服部さん】が県内の大学を全部まとめて1000人規模のイベントをやっていました。クラブじゃなくてまだディスコと呼ばれていた箱を貸切にして。今ではびっくり沖縄にもマハラジャ(東京を中心に全国にあったチェーンのディスコ。ハワイにもありました)があったんですよね。少し話がそれましたが、そのサークルに自分も少し関わるようになって一番最初にスポンサー営業をしにいったのがオリオンビールでした。

 

わー、恥ずかしい名刺を発見!



 

相変わらず元気な服部さん



 
当時は、オリオンビール自体に宣伝の部署がなく営業部の中に営業部宣伝調査課というのがありました。しかし、大学生の僕はそんな部署があることも知らず似合わないスーツを着て総合案内へ行き、総務課とかに案内されて一生懸命企画書を説明していました。部署が違うので分かってもらえるはずもないんですけどね、今考えれば。でも3~4回通って「先日の企画書はいかがでしょうか?」みたいな話をしていたら、たまたま宣伝調査課の責任者の方が通りかかって「何の企画書なの?」みたいな話になってお話を聞いて頂きすんなり広告と物品協賛でスポンサーになってもらえました。覚えているのは「みんなの集まる場所をつくりたいんです!」という僕の一方的な話に「いいことだねー!」と気持ちよく笑ってもらえた事ですかね。だいぶ懐かしい話です。どういういきさつだったのかは忘れましたがビール研究クラブという名前でも活動していましたね。一度つながりができたのでその後は、もっていった企画書すべてスポンサーになって頂き、逆に大学生で何かできないか?みたいなお話を頂いたり大変お世話になりました。東京に就職してからもお世話になり、今現在もお世話になりっぱなしですけれど。

お世話になった方々の名刺



 
そんな昔話もあり、やはり自分が本土出身者で友人が沖縄に来たときはオリオンビールが飲みたい!と言われることもありお店を出すときは迷わずオリオンビールでした。今は、発泡酒の麦職人を生ビールでオリオンドラフトビールは瓶でおいています。いやー、懐かしい話です。今日はこの辺で。

category: 昔話 , 沖縄県産品

海っぽい店内になるのは?ウインドサーフィン全日本学生選手権!!

皆さんこんばんは!今日はまた少し寒くなりましたねー。タイトルにも書きましたが金曜日から和歌山の和歌山マリーナシティーでウインドサーフィンの全日本学生選手権団体戦が行われています。後輩達が頑張ってる姿をネットでみて懐かしいなーと思うこともあり今日のブログで書いてみようとおもいました。

先輩がコーチとして参加されてたアテネ五輪のポスター



 
団体戦とは、各大学5名の選抜チームを編成して、そのうち1レース3名が出場して3名の合計の成績で順位が決まる大会です。1人だけ速くてもダメでチームとしての総合力が勝負のカギです。自分達の頃はこの大会はありませんでした。この時期に行われる大会なので4年生にとっては本当に最後のレースになるのです。金曜日に4レースが行われ琉球大学は総合1位。土曜に2レースが行われ総合3位。そして今日が最終日でした。結果は、総合3位。そして個人成績で2位でした。でもこの最終日で4年生のエースが2レースとも1位。最後の最後で大逆転のレース展開で鳥肌がたちました。便利なものでツイートキャスティングでライブで見れたのです。

ハワイの標識



 
自分達の頃は、学生と社会人のクラスがちょうど変わり目で、学連自体も関東と関西九州の半分ずつみたいな中途半端な選手権でした。1980年代はワンデザインでサーファー艇というクラスが主流。というか最初の頃はそれしかなかった。そこからボードが進化してレースボードになった。でもセイルが2枚までとか色々複雑で結局イムコにおちついた。でまた今はテクノ。そんな流れですね!僕らの現役の頃は、映画にもなった日本人で唯一ワールドカップを転戦していた故飯島夏樹さんやオリンピック出場を目指して戦われていた杉本武さんが先輩にいるような超体育会系のウインドサーフィン部でやっぱり強いサークルでした。先輩達に触発されて世界にいくかどうか?みたいな話をよくしていましたねー。懐かしい。2つ上の先輩が全日本選手権優勝。自分達の代のキャプテンが変わり目のインカレで優勝、一つ下の代もインカレで優勝でした。自分は、1レース目だけ得意な風域で3位。その他は風がおちたこともあり失敗しました。でそのまま全日本選手権で得意な風域とおもいきや風が吹きすぎてノーレースでした。そんな苦い思い出のあるウインドサーフィンの大会でした。

バリ島のキャンドルホルダー



 
社会人になれば、学生の時ほど時間を自由にはできません。あの時自分は全力をだせたかどうか?というか大会自体が中止になったのが残念でしたね。卒業後、サーフィンに転向ししつこく海に通っているのはこのあたりが原因なのかもしれません。そして、海っぽいポスターなども飾っているのもこのあたりが原因なのかもしれません。何事も悔いのないようにしなくっちゃですね!今日はこの辺で。

現役時代23歳の自分



 
 

 

category: 昔話

昔話その1

 

ヒストリーのページで懐かしい話を沢山書きましたが、今日はもう少し細かい話を書いてみようと思います。



飲食店をやる!と決めたものの実はあんまり経験はなくホテルでアルバイトのボーイをやったことが少しあるだけでした。やる!となって初めて、飲食店とは?とかレシピ本を読みあさってました。でも、実際の現場で働いたことがないのは致命的!と思いその当時、東京渋谷で行列が100mくらいできる人気のイタリアンのお店に一か月だけ潜入!(ちゃんと事情を話して働かせてもらいました。)



今は、だいぶ忙しいのには慣れましたが当時は全くの素人の状態だったので未だに「あれを超える忙しい!ってあるのだろうか?」と思うことがあります。キッチン補助兼、ホール補助だったのですが、一生懸命フライパンを洗っているのにシェフ2名がバンバン投げてくるフライパンが一向に減らず。足りないものを先に洗うような感じ。ピークが終わると今度はお皿の山と対決!そんなイメージです。



でちょっと落ち着く時間に仕込み。最初は叱られっぱなしでした。で多少慣れたころに卒業でした。色々な事を教えてもらいました。たまたま、店長さんが沖縄の方だったのでとても親切でした。



この頃学んだことが自分のベースになっています。最初に超忙しいのを経験したことで、常に優先順位を考えて動くようになりました。

【それはどうしても今やらないといけないのか?】よく叱られた言葉です。

その後店舗の場所探し、店造りの為沖縄に移住しました。
〈昔話その2〉に続く そのうち書きます。


category: 昔話


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